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−−708年−− |
武蔵国秩父でとれた銅が大和の朝廷にささげられたのを祝って
年号を「和銅(わどう)」とし、日本ではじめての貨幣(かへい)
「和銅開珎(わどうかいちん)」をつくりました。 |
−−716年−− |
今の日高市[左側イラストの赤い点あたり]に朝鮮半島の北部にあった高句麗(こくり)からやってきた
高麗人1,799人を7か国↓から移して高麗郡をおきました。 |
1 |
するが |
(今の静岡県) |
2 |
かい |
(山梨県) |
3 |
さがみ |
(神奈川県) |
4 |
かずさ |
(千葉県) |
5 |
しもふさ |
(千葉県) |
6 |
ひたち |
(茨城県) |
7 |
しもつけ |
(栃木県) |
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平安時代 −−794年−− |
この時代の終わり頃になると政治がみだれ、地方の治安は悪くなっていきました。そこで武蔵国の開拓者たちは、自分の土地を守るために力をたくわえていきました。しかし、一族だけの力では弱いので連合して武士団をつくっていきました。
それが坂東八平氏(ばんどうはちへいし)や武蔵七党(むさししちとう)などとよばれました。
やがて、源頼朝(みなもとのよりとも)が旗上げすると武蔵武士の多くは頼朝にしたがって平氏と戦いました。
この合戦には、武蔵武士が出陣し、遠く中国地方まで馬を進めて戦いました。 |
鎌倉時代 −−1192年−− |
武士が政権をにぎりますが、この頃活やくした河越氏は川越市上戸に、畠山氏は嵐山町菅谷に館を構えていたといわれています。
そのほか、県内各地に武蔵武士の館あとが残されています。 |
南北朝争乱時代 −−1330年−− |
武蔵武士は、分裂して戦いをはじめました。
- 小手指ケ原〈こてさしがはら〉 ⇒ (所沢市)、
- 女影ケ原〈おなかげがはら〉 ⇒ (日高市)、
- 入間川 ⇒ (狭山市)
- 五十子〈いかっこ〉⇒ (本庄市)
などが合戦場となりました。 |
室町時代 −−1338年〜 −− |
この時代の後半から、有力な武将たちは城を築いて敵にそなえました。
鉢形(寄居町)、松山(吉見町)、八幡山(児玉町)、岩槻、川越、忍(行田市)などの城を中心に戦いがくり広げられました。
やがて、小田原の北条氏が武蔵全域を支配するようになりました。長い間勢力を持っていた北条氏が豊臣秀吉にほろぼされ、北条氏の支配下にあった城は、城をせめ落とされたり(落城)、降参して城をあけわたしたり(開城)してしまいました。 |
江戸時代 −−1603年〜 −− |
埼玉は、江戸に近いことから治水工事、新田開発が積極的に行われました。
野火止用水(のびどめようすい)や見沼代用水(みぬまだいようすい)など大規模な用水路も開かれました。
川越・忍・岩槻の城下町や中山道、日光街道の宿場がつくられ、今の『まち』のもとになりました。
栃本(大滝村)、川俣(羽生市)、栗橋(栗橋町)には関所がおかれました。
また、大都市江戸の食料などの生産地となり、産物の増加と河川を利用した交通の発達が進みました。
江戸から入ってくる文化にも影響をうけました。「小江戸川越」の誕生もそのひとつです。 |