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こんにちは。前回の埼玉県の歴史はお楽しみいただけたでしょうか?今回は、その第2段として、埼玉を部分ごとに調べてみました。
ちょっとむずかしそうな言葉などありますが、解説もつけましたので、ぜひ見てくださいね♪

マークがついているところには解説があります。
 こんな感じです → [ クリック ]

埼玉県 5分割地図
● 秩父(秩父市・横瀬町・皆野町など)
・秩父神社(秩父市)
● 中央(川口市・浦和市・大宮市など)
・氷川神社(大宮市)
 こうもんしきうんが・みぬま・つうせんぼりいこう
・閘門式運河見沼用水通船掘遺構(浦和市)
● 西部(川越市・所沢市・飯能市など)
・喜多院(川越市) ・川越まつり(川越市)
・野火止用水(新座市) ・平林寺(新座市)
● 東部(行田市・加須市・岩槻市など)
・岩槻城(岩槻市)
● 北部(熊谷市・本庄市・深谷市など)
 めぬましょうでんざん
・妻沼聖天山(妻沼市)・鉢形城
 ● 中央(川口市・浦和市・大宮市など)  
埼玉県 中央部分この地域が発展したのは、江戸時代になってからです。
中山道(なかせんどう)日光御成街道(おなりかいどう)などの せいびで人々の行き来とぶっしの流通がさかんになり、かいどうの宿場(しゅくば)としてはんえいしました。 明治時代になり、高崎線、東北本線などの鉄道がかいつうするとえんせん地域は、急そくにしがいちを形成し、県内ずいいちの大事な所となっていきました。

 氷川神社 【 大宮市 】
724〜749年「武蔵(むさし)一の宮」とさだめられました。
成務(せいむ)天皇のとき、无邪志国造(むさしくにのみやつこ)となった「兄多毛比命(えたもひのみこと)」がいずも族を引き連れてこの地に移住し、その祖神を祭ってうじがみにしたといわれています。 明治17年にこの神社の周囲の一部が県内初の県営公園となりました。

 閘門式運河見沼通船堀遺構(こうもんしきうんがみぬまつうせんぼりいこう)【 浦和市 】
閘門式運河アニメ1731年徳川吉宗(とくがわよしむね)のめいを受けた井沢弥惣兵衛(いざわ・やそべえ)が完成させた日本でもっとも古いこうもんしき運河です。
見沼代用水(みぬまだいようすい)芝川(しばかわ)との水面に約3メートルのらくさがあるために東西にこうもんをもうけ、水位を調節しながら船を上下させて通したものです。 見沼代用水えんがんで取れた米などの生産物と江戸からの塩やざっかるいのゆそうのためにつくられた通船堀も陸上交通の発達で大正時代の終わりには、2世紀におよぶ役目を終えました。
昭和57年に国指定史跡(しせき)となりました。
 ● 西部(川越市・所沢市・飯能市など)
埼玉県地図 西部 古墳(こふん)時代の群集墓である吉見百穴(吉見町)などの
史跡(しせき)があり、早くから人々が生活していたことがわかります。
また、奈良時代のはじめには、朝鮮半島(ちょうせんはんとう)から渡来人(とらいじん)によって高麗川(こまがわ)のりゅういきがかいたくされたといわれています。
716年、当時の大和朝廷(やまとちょうてい)は、東国各地に住んでいた高句麗(こうくり)人を武蔵国(むさしくに)にうつし、
はじめて高麗郡(こまぐん)をおきました。

 喜多院 【 川越市 】
830年慈覚大師(じかくだいし)がそうけんしたと伝えられています。 一時、おとろえましたが徳川家康(とくがわいえやす)のかたうでと言われた僧天海(そうてんかい)によってふたたびさかんになりました。 しかし、1638年大火によってほとんどのものを焼失してしまいました。 翌年、徳川家光(いえみつ)のえんじょで天海がふたたびさかんにしました。 その時、江戸城の紅葉(もみじ)からうつされた、「家光誕生の間(たんじょうのま)」、家光のうば春日野局(かすがのつぼね)の「化粧の間(けしょうのま)」などは国の重要文化財(じゅうようぶんかざい)に指定されています。

 川越まつり 【 川越市 】
1651年に川越ほどのところに何の祭りもないのはおかしいと松平信綱(まつだいらのぶつな)が言い出したのきっかけに、9月25日に急に祭りが行われ、翌年から9月15日になったとされています。 新しいこよみになってから10月15日となりました。 江戸から近い川越は、江戸文化のえいきょうを受けました。 川越まつりも江戸のげんろくのきふうがおよんだもので、山車(だし)は、江戸の天下祭りをまねたものとも言われています。

 野火止用水(のびどめ・ようすい) 【 新座市 】
1655年松平信綱が玉川上水の水を引き、この地域ののみ水、農業用水として使うために開きました。

 平林寺 【 新座市 】
1663年松平信綱の子輝綱(てるつな)が父の意思をついで岩槻市(いわつきし)にあった平林寺を新座市野火止(にいざしのびどめ)にうつし、松平家のぼだい寺としました。
 ● 東部(行田市・加須市・岩槻市など)

埼玉県 東部 行田市周辺は、埼玉古墳群にみられるように早くから開けたところで5〜6世紀には文化の中心でした。
江戸時代には、忍藩(おしはん)岩槻藩がおかれ、
その城下町(じょうかまち)だった行田市や岩槻市は、政治・経済・文化の中心としてさかえました。
土地がらをいかして、関東有数のこくそう地帯として開け、日光道中、日光御成道ぞいに
宿場(しゅくば)がはったつして行きかう旅人でにぎわいました。
昭和30年代中ごろからは、宇都宮線(うつのみやせん)東武(とうぶ)ぞいに住宅や工場などがあいついで進出しました。

 岩槻城【 岩槻市 】
1457年太田道真(おおたどうしん)道灌(どうかん)ちくじょうしたといわれています。
のちに徳川の譜代大名(ふだいだいみょう)じょうしゅとなり「白鶴城(しらつるじょう)」ともいわれていました。 明治いしんの時に取りこわされてしまい、城の表門が保存されているほかは、わずかしか残されていません。
 ● 北部(熊谷市・本庄市・深谷市など)
埼玉県 北部中世では、坂東武者(ばんどうむしゃ)の中心となる場所でもあり鉢形城(はちがたじょう)のこうぼうなど何度か戦場になったことがあります。 近世にはいると中山道最大級の宿場町としてさかえました。 本庄(ほんじょう)宿などをはいけいに
塙保己一(はなわほきいち)渋沢栄一(しぶさわえいいち)をはじめ、多くの文化人をつぎつぎにだしました。

 妻沼聖天山(めぬま・しょうでんざん)【 岩槻市 】
1179年「平家物語」にそのゆうもうぶりが伝えられる
斎藤別当実盛(さいとうべっとうさねもり)が古社を修造(しゅうぞう)、守りほんぞんの大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)を祭って、聖天宮(しょうてんぐう)としょうし、長井庄のそうちん守としたのがはじまりです。
1760年に25年のねんげつをかけて完成したものがげんざいの社殿です。国の重要文化財に指定されています。

 鉢形城
1469〜1487年に長尾景春(ながおかげはる)ちくじょうしたと伝えられています。
その後、上杉氏、後北条氏と移り、1590年北条氏邦(うじくに)じょうしゅの時に、
豊臣秀吉(とよとみひでよし)小田原攻(おだわらせ)めにともなってこうげきされ、5万の大軍のまえにこうふくしました。
最近では、氏邦みずから平和的なかいじょうを決意したと考えられています。
 ● 秩父(秩父市・横瀬町・皆野町)
埼玉県 秩父 古墳時代の集落あとや墳墓(ふんぼ)
奈良時代の条里(じょうり)のあとがあり、早くから開かれた地域でした。 山間の地にあることから、古くからどくじのしゅうかん、ふうぞくがうまれました。 明治時代になると本庄や熊谷との間に新幹線(しんかんせん)がかいつうしました。 その後、げんざいの秩父鉄道(ちちぶてつどう)のかいぎょうなどがあり、中山道すじとの結びつきを強めていきました。

 秩父神社【 秩父市 】
秩父の国造知知夫彦命(ちちぶひこのみこと)祖先(そせん)を祭ったのがはじまりと言われています。 1592年徳川家康が社領517石をきしんし、みずからがさいけんしたものです。 秩父夜祭(よまつり)は、秩父神社の例大祭(れいたいさい)で300年以上も続いています。
参考文献 : ガイドブック彩の国さいたま

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